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人間活動の大部分が住居を中心にして行われてきたため、住居を構築する際にはできるだけ自然条件の良い所を選ぶように、先史時代の人々もそのような場所を求めて居を構えたであろう.
支石墓時代の人々も山を背にして水場に近い地域に地面を掘りくぼめて建てる竪穴住居を構築して暮した.おおよそ10棟前後の小さな集落を形成して暮しながら、集落の周囲には村の境界と防御のための溝を掘ったり木柵を立てたりした.
支石墓を築いた人々が最初に住み始めた場所は低い丘陵や川沿いであったが、農耕が本格的に始まると次第に低い丘陵の偏平な場所に大規模な集落を営んだ.当初は2~4棟の竪穴住居が集まって暮らしていたが、次第に低い丘陵や川辺の沖積地帯に移りながらその規模が拡大し、多いと数百棟あまりの住居が一箇所に集まって住む大規模集落に変貌していった.
稲作と畑作
新石器時代以降畑作が中心であったが、青銅器時代以降にはコメを中心にした稲作が生業の大きな比重を占めるようになる.稲作の直接的な証拠としては炭化米や底部や胴体部に籾の痕跡が残っている無文土器などがある.これまで知られている炭化米は平壌南京遺跡の例を除くと、全て韓半島南部地域で出土している.1970年代中盤に扶余松菊里遺跡で大量の炭化米が出土して青銅器時代の稲作農耕が確認された後、江陵校洞、驪州欣岩里、忠州早洞里、晋州大坪里、山清召南里遺跡が調査されるとともに関連資料が蓄積している.
コメとともに稲作の直接的な証拠である青銅器時代の水田は近年、蔚山無去洞玉峴遺跡、論山麻田里遺跡などで調査されている.蔚山無去洞玉峴遺跡の水田は1-3坪ほどの方形や不定形の形態をなし、論山麻田里の水田は自然地形をそのまま利用して3m前後の長方形や方形に小区画して、人工の水路を掘って水田に水を引く潅漑施設を備えていた.これと共に伐採用石斧の増加、有溝石斧・石鑿(柱状片刃石斧)・石鉋(扁平片刃石斧)など農耕具製作用の工具の普及などは、農耕が生産経済の基盤としてすでに普遍化していたことを物語る資料であるといえよう.
狩猟は食糧と皮革を得るための先史人の重要な生業活動であり、旧石器時代以来続けられている.旧石器時代には動きの遅い大型動物が主な獲物であったが、新石器時代には動きの素早い小型動物に変化したため、旧石器時代以来の対象物を直接突く槍よりは、磨製石鏃が普遍的に用いられた.槍と斧が近距離用の狩猟道具であるとすれば、弓と矢は遠距離用狩猟道具であるといえる.したがって、多くの遺跡で発見される磨製石鏃の登場は獲物の変化に対応する新たな発明品であった.
三方が海で囲まれた韓半島は近海で寒流と暖流が交差しており、リアス式海岸が発達していることから貝類や海藻類、魚類が豊富である.海岸および島嶼地域に広く分布する貝塚遺跡に見られるように新石器時代の人々は新石器時代初期から海洋資原に目を向けて漁労という新たな生業技術を開発した.
魚をより効果的に得るための道具として磨製石鏃を木の長い棒の先に付けた銛と現在でも使われている釣り針、そして網を利用した漁労は安定した食糧供給源として大きな役割を果たした.
これらの道具を用いてどのような魚介類を得たのであろうか.彼らは魚だけではなく海辺で貝やカキを採集し、時には素潜りで海草やサザエ、アワビなどを採取した.貝の他に川や海で釣れる魚や海獣も多様であった.遺跡で発見された魚骨にはタイ、タラ、スズキ、マダイ、ヒラメ、エイ、ボラ等の海水魚とコイ、ライギョなどの淡水魚がある.
旧石器時代以来の伝統的な生業であった採集は新石器時代にも依然として食糧を得る主要手段であった.特に加工技術の発達によってドングリは新石器時代以降、私たちの先祖が好んで食べる食べ物となった.ドングリは先史時代に重要な食糧であったと推定されるが、カロリーと栄養価が穀物と同様に高いが、大部分はタンニンに由来するアクを取り除くための特殊処理が必要であった.また、採集時期は秋に限定されており、冬の間は貯蔵穴に保存して調理した.
また、ドングリが食用として使われたことを証明する遺物としては磨棒と磨石があり、これらは住居址で多数確認される.これ以外に野生の食用植物は野菜と主食、おやつの代用として食された.